主イエスはイザヤ28章16節や詩編118編22(21)節を踏まえて御自分を「隅の親石」と呼ばれた。ヨハネ2章17節の通り「家」は神の家つまり神殿を指す。「あなたたち民の指導者は神殿の拡張工事には熱心(同章20節「四十六年」)でも救い主を邪魔者扱いするが、わたしから救いは始まる」。
(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
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【追記】
ヨハネ2章17節は詩編69編10(9)節を引用し、
「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」
と記す。「あなたの家」は神殿を指し、「熱意が食い尽くす」もヘブライ語由来の表現で、
「あなたの家を思う熱意がわたしを突き動かす」
「わたしはあなたの家を思う熱意に駆られる」
の意味合いである。
(注)別エントリー「試論:『神殿で商人を追い出す』を140文字以内で」も参照のこと。
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過越祭には過越の小羊が不可欠だった。祭のために世界中から都に集まる古代のユダヤ人は、羊を連れて旅するわけにもいかず羊を現地調達した。世界中のユダヤ人からも集められた神殿税は過越の小羊の準備にも当てられたが、それの度が過ぎて神殿の境内が家畜市場の様相を呈していた有様に主は憤られた。
(注)別エントリー「試論:『身代わりの羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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《体も家も自身にとっての住まい》(ヨブ4章19節参照)として「体」と「家」とを重ねるヘブライの世界観を踏まえ、主イエスは、《人となった神の子である自身の体》を《神の家=神殿》に重ねて「三日で建て直して見せる」と宣言されたが、イエスを冒瀆者として葬り去ろうとした人々に通じなかった。
創世記の2章と3章では、人間は「土(塵)」に由来し「土(塵)」に還る存在とする。創世記の記述に基づきヨブ記4章19節は「人は塵の中に基を置く土の家に住む者」と記す。ここでは人間の体を「土の家」と表現し、古代のヘブライ人が「(人間の)体」と「家」とを重ねて考えていたことを示唆する。
(注)別エントリー「試論:『土』と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。
(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。
一コリント15章は、
《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》
とを、
「地上の体」と「天上の体」
「地上の命の体」と「霊の体」
等と表現する。