試論:放蕩息子の「指輪と履物」を140文字以内で

エステル3章10節以下では王権の委任を象徴する印章(ハガイ2章23節参照)として、指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人(ローマ8章17節参照)としての権利回復を象徴する。ルツ4章7節では親族が本人に替わり責務を代行する場合の要件として、履物が登場する。やはり権利回復を表す。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

エゼキエル33章11節には「わたしは悪人が死ぬことを喜ばない。悪人が立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ。悪しき道から立ち帰れ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか」という主の仰せがあり、同18章と同様のおぼしめしが繰り返し伝えられ、人々に悪から離れて生きることを強く勧められた。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ6章34節「その日の苦労はその日だけで十分」は有名である。ただし「苦労」と日本語訳されるギリシア語には「悪」「災難」の意味合いがあり、全てを失った放蕩息子が回心し父親の許への帰郷を思い立ったのと同様に、主は第一に「神の国と神の義」(33節)への回帰(回心)をお勧めになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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主は「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったが、ルカ10章では自分を「義化」(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対して、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっていることをお教えになった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:隣人愛と『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言17章5節の後半は「他人の不幸を喜ぶ人は罰を免れない」等と訳される。古代のギリシア語訳はさらに「同情する人は憐れみを受ける」と続け、これはマタイ5章7節と同じ趣旨であり聖書の「憐れみ」とは他人の不幸を喜んだり笑ったり嘲ったり蔑んだりせず、ただ同情を寄せることであると説明する。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じことである。

レビ19章18節「あなたは自分自身を愛するように、他の人を愛さなければならない」マタイ7章12節「あなたは、他の人からしてもらいたいと思うことならどんなことでも、あなたから他の人にしなさい」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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