「人を惑わす霊」は一ヨハネ4章6節に登場し、3節の「反キリストの霊」「イエスのことを公に言い表さない霊」と同じだが、4節の「偽預言者たち」を指している。「わたしたちから去って行った」「世のことを話す」「世は彼らに耳を傾ける」「キリストの教えにとどまろうとしない」などの特徴を持つ。
【追記】
一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。
主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。
主イエス・キリストはヨハネ1章において「言(ことば)」つまり「神の御言葉」と呼ばれる。《天使や預言者を介さず直に人々に語り掛けられる神》であるのと同時に、《人が御自分の御言葉を実行するか否かで、その人が本当に御自分を愛しているか否かを判断なさる神》(ヨハネ14章)だからでもある。
(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録12章9節は「竜」を「悪魔とかサタンとか呼ばれる、年を経た蛇、全人類を惑わす者」と呼び、創世記3章の「蛇」と同一と示唆する。その手口は「〔神から言い渡された事柄に従わなくとも〕あなたは死ぬことがない」であり、この「死」は申命記30章15節の通り「不幸の極み」の比喩でもある。
【問】カトリックでは創世記3章15節および黙示録12章の「女」をマリアと解釈し、サタンと決定的に対立する存在だと教えますが、その対立点はどこですか?【答】マリアは人々へ神の言葉には全て従うよう勧めますが(ヨハネ2章5節)、サタンはエバへ神に従わぬ(創世記3章4節)よう唆しました。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で真理を自称され、1章1節は御子を「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話になる神》と記す。18章37節で主は「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」と仰せになった。福音書に収録された実際の主の仰せを軽視する人は主に属していない。
(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まことの神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。
(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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