一ヨハネ5章16節は「死に至らない罪」と「死に至る罪」を対比する。旧約聖書第二正典の知恵の書10章はアダムとカインを対比し、カインは弟を殺しただけでなく「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と神に嘘をつき、その上で神に対しても敵意を剥き出しにして、最後まで全く反省しなかった。
(注)別エントリー「試論:アベルとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。
エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。
(注)別エントリー「試論:『怒ってはならない』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ5章22節で「怒ってはならない」と仰せになった。ヤコブ1章20節は「人の怒りは神の義を実現しない」と記し、同19節は「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい」2章13節では「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」と警告している。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296
主イエスはマタイ7章22節以下で、神が人々に求めておられるのは預言でも奇跡でも悪霊を追い出すことでもなく、ただ悪を行わないことだと示唆された。ヨセフは1章19節で義人と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人は隣人の困り事に親身に対応する無私の人そして永遠の命を確約された人を指す。
箴言28章14節は「いつも気を配っている者は幸いであるが、周囲に厳しい者は苦難に陥る」と記し、神に対しても隣人に対してもどんな物事に対しても注意深く慎重に接する人はそうそう困難に遭うことはないが、万事に頑固で当たりの強い者はそれだけ様々な面倒事に巻き込まれ易いものだと説いている。
「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。