神が人となられた(ヨハネ1章14節)事をニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」とする。神は単純に人間へ変化(変質)したのではなく、神のままで「人間としての全て」を担った(引き受けた)。神は本来、神以外の別物へじかに変化(変質・劣化)する事などできない。
【追記】
古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。
(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725
(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649
(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642
「神が人となられた」と聞くと現代人は単純に「神が人間に変化(変質)された」と捉えがちだが、古代の旧約の民は絶対にそうは理解しなかった。なぜなら「わたしはある」(出エジプト記3章14節)という神の御名に含まれるヘブライ語の動詞「ある」には、変化(変質)のニュアンスはないからである。