ダビデは自分の詩編で、神の救いを切望する自分の内面を「貧しい」と表現したが、《イスラエルの王だとしても、神の御前では自分は無一物に等しい》という自覚の故だった。「神の箱」の帰還に喜び踊りミカルから「からっぽ」呼ばわりされても、ダビデは自分が「からっぽ」であることを否定しなかった。
(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544
(注)別エントリー「試論:マタイ5章3節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6105
(注)別エントリー「試論:ダビデと『心の貧しい人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6505
(注)別エントリー「試論:『心の中で貧しい人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6553