ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。
(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277
【追記】
詩編49編8(7)節は神に対し人間は贖いの業を行うことができないと記す。マタイ20章28節で主イエスは、「人の子(人となった神の独り子)」が世に来た目的とは、御自身が担っている「人間としての全て」を「身代金(詩編49編8節と同表現)」として贖いの業を行うためであると、宣言された。
(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823
(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479
エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。