試論:「知っている」を140文字以内で

主イエスはヨハネ10章で「良い羊飼い」と自称されたが、この章では「知っている」(14節等)という表現が特に、「声を聞き分ける」(3節等)「心にかけている」(13節)等の意味と強く関係しており、ただ単に「面識がある」「そういう者が世に存在することは知っている」程度の浅い仲ではない。

(注)別エントリー「試論:『良い羊飼い』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
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新約聖書には、「耳のある者は聞け」という表現が随所に登場するが(マタイ11章15節、黙示録13章9節等)、この場合の「耳」とはイザヤ50章にある通り、主が忠実な弟子に賜る特別な恵み「理解力」の比喩である(4節〜5節、「主なる神は弟子となったわたしを呼び覚まされて耳を開かれた」)。

箴言18章13節は、他人の話に聞き従う以前にまず何か口答えする習慣を持つ者に相応しいものを二つ挙げている。また12節では心の驕りが破滅に先立つことを記し、20章12節も聞く耳を持つよう勧め、21章4節でも高慢なまなざしと傲慢な心こそ、神に逆らう者と罪の「しるし」となることを説く。

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
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