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試論:「神の右の座に着く」を140文字以内で

マルコ16章19節は「主イエスは天に上げられ神の右の座に着かれた」と記すことで、主イエスが《神の子》(同1章1節)であることを再度強調する。主御自身もまた「もしもあなたがたが、人の子(主イエス御自身)が以前いたところに上(のぼ)るのを見るならば」とヨハネ6章62節で仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

【追記】

エゼキエルやダニエルが「人の子よ」と呼びかけられる時「人の子」は「人間(人類の一員)」という一般的な意味である。「人となられた神」が自称される時だけ「人の子」は神の称号としての意味を持つ。マタイ12章では「人の子」は主の人間としての側面を指し、「聖霊《神の霊》」の比較対象である。

ヨハネ1章14章は「言(ことば)は肉となって」と記し《人々と直にお話しになる、御子である神》主イエス・キリストが人間となられたことを記すが、10章30節では「わたしと父は一つ」と主は仰せになり、たとえ自分は人間(「人の子」)となっても同時に神は神のままであり続けることも示された。

ヨハネ1章18節は「ふところにいる」という位置関係で御父である神と御独り子であるイエス・キリストとの親密な関係を表現する。13章25節で主に「(裏切ろうとしている一人、)それは誰ですか」と質問した弟子はまさに同じ位置関係で、この弟子が主から特に目を掛けられた存在であると示唆する。

ヨハネ1章18節は、御父である神を見た者はいない(出エジプト記33章20節参照)と記し、御子である神つまり主イエス・キリストがこの世に到来され、神とは何であるかについてお示しになったと記す。そのことをヨハネ14章7節で主御自身がフィリポに御説明されている(ヘブライ1章3節参照)。

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492

(注)別エントリー「試論:「神の母であること」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

(注)別エントリー「試論:「救い主の母であること」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510