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試論:預言解釈の基本を140文字以内で

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4584

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

【追記】

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22

イザヤ書17章3節までにダマスコ(現在のダマスクス)つまりアラム(現在のシリア)の首都の滅亡が預言されたが、後にこれが成就したことを列王記下16章9節が記しており、アラムに威嚇されたエルサレムのアハズ王が強国アッシリアを介入させアラムを滅亡させた。紀元前732年頃のことであった。

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

エゼキエル書26章から28章にはティルスの繁栄と滅亡が預言されているが、預言から二百数十年後にマケドニアのアレクサンドロス大王がティルスを滅ぼした。一部市民は脱出して北アフリカの植民市カルタゴに逃亡し、引き続き繁栄を謳歌したが、二百年弱のうちにローマ人がカルタゴを完全に滅ぼした。

かつて宿敵カルタゴを滅ぼした際、「そこに繁栄していた都市が存在したことを思い出せないまでに」、ローマ人は徹底的にカルタゴを破壊し尽くした。二百年以上が過ぎ、ローマが数年に及んだユダヤの大反乱を鎮圧した際、ローマ人はカルタゴの時と同様、エルサレムと第二神殿を徹底的に破壊し尽くした。