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試論:「タラントン」「穴」を140文字以内で

主イエス・キリストがこの世に来られた意義は、「言」すなわち神の御言葉(御教え)を御自分で人々に仰せになるためであり、「御教えを聞いて自分なりに努力したけれど悪戦苦闘の結果あまりうまくいかなかった」ならまだしも、最初から聞かなかったように振舞うのは、財産を穴に埋めるのと同じである。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

【追記】

一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。

旧約聖書では「良からぬ意図の下に穴を掘る」行為は、結局は自分自身の破滅を準備する象徴的な仕草と見なされた(詩編57編7(6)節)。詩編94編12節は「主よ、あなたに諭されあなたの律法を教えていただく人は幸い」と記し、13節では神に逆らう者の滅びの象徴として「穴」が言及されている。

(注)別エントリー「試論:『穴を掘る』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネの第一の手紙の4章は「反キリストの霊」の特徴を説明している。神からの霊が主イエス・キリストの福音を解説するのに対し、人を惑わす霊は信仰を自称しつつ世界情勢(国際情勢・社会情勢)を好んで語る一方でキリストの福音の中身に関しては全く意を尽くすことなく沈黙する、という特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わない信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586