古代のヘブライ人は「言葉〔の力〕」を「剣(つるぎ)」に喩え、主も御言葉をマタイ10章34節では「剣」と表現された。箴言12章18節は、人の言葉は剣のように鋭く相手に迫り心に突き刺さるが、神からの知恵を持つことにより言葉の力は心の傷のいやしとゆるしをもたらすことさえも可能だと説く。
(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
マタイ10章34節「わたしが来たのは平和をもたらすためだと思ってはならない」。この言葉の意味を三十数年前シメオンから聖母は預言されていた(ルカ2章34節)。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするしるしとして、また反対を受けるしるしとして、定められています」。
(注)別エントリー「試論:母マリアと『剣』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。
旧約聖書には、「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉〔の力〕」を「剣」にたとえる言い回しが、いくつかの箇所で登場する。詩編55編22(21)節、57編5(4)節、59編8(7)節、箴言5章4節、12章18節等である。これらを踏まえて主イエスは「剣をもたらすために来た」と仰せになった。
(注)別エントリー「試論:『言葉の刃』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ10章34節で、自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣とは分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この「分断」の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されている。剣を用いた争い事を主が奨励されたわけではないことは同26章52節の御言葉から当然である。
マタイ10章37節で主は、自分より両親や息子や娘を愛する者は自分にふさわしくないと、仰せになった。ここで主は、別に両親や子供たちを粗末に扱うことを勧められたわけではない。ただ主は直前に、剣をもたらすために自分は来た(34節)と仰せになった。剣は分断(25章32節)を象徴している。
もちろん誰一人として、最後の審判で家族が分断されることなど望んでいるはずもない。既に旧約聖書の申命記において、家族で主の御言葉を学ぶことが強く推奨されている(6章6節〜9節)。それは主のおぼしめしに合致することであるのと同時に、家族全員を最終的な幸福(永遠の命)に導くからである。