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試論:「食事と洗い」を140文字以内で

マルコ7章でファリサイ派の人は、「市場から帰ったら食事の前に身を洗うこと」という言い伝えに従いイエスに難癖をつけたが、本来これはモーセの律法にはない。モーセの時代に荒れ野を放浪したイスラエル人は日々の糧をマナに全面的に依存しており、また水資源の確保にも苦労し続けている状態だった。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

(注)別エントリー「マタイ6章『祈る時には』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9168

(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことなのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/408

【追記】

主イエス・キリストはマルコ7章の最初の部分でファリサイ派の最大の問題点を指摘された。それは彼らが「言い伝え」を過度に重視していることで、本来モーセの律法に対して副次的存在だった「言い伝え」がいつしか律法と同等以上にまで扱われ、しかも隣人を圧迫するための口実と化していた事実である。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

主イエスは「ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種には気を付けなさい」と教えられ(マタイ16章、マルコ8章)、一コリント5章は「古いパン種そして悪意と邪悪のパン種を用いてはなりません」「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」「あなたがたはパン種の入っていない者」等と教えている。

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

マタイ12章で、麦畑から穂を摘んで直に麦を口にするほど弟子たちは空腹だった。ファリサイ派の人々に対し、主はサムエル上21章を引用された。パンではなく直に麦を口にするほどの空腹をしのぐことは、井戸に落ちた息子をすぐに引き上げる(ルカ14章5節)ことと同じく、安息日の掟にも優先する。

(注)別エントリー「試論:『空腹をしのぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10791

主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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マタイ9章32節以下のいやしのエピソード以降、ファリサイ派の人々は「彼は悪霊のかしらの力で悪霊を追い出している」と主イエスを中傷し続けた。主はマタイ12章32節で、聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって追い出した」と咎めることは絶対に許容されない、と仰せになった。

主はマルコ3章28節以下で、御自身の人間(人の子)的側面(ガリラヤ人、大工等)を云々する人々には酌量の余地がまだ残されるが、御自身の神としての権威(聖霊によって悪霊を追い出した事実)を目の当りにしながらそれになお難癖をつける人については、最早決して酌量の余地はないと警告なさった。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

主はマタイ12章32節で、御自分のことを単に人間的な事柄で嘲る人の悪口(同11章19節「大食漢で大酒呑み、徴税人や罪人の仲間」)は許容範囲内だが、神の霊つまり聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって悪霊を追い出した」と咎めることは絶対に許容されないと、仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725