福音書は、神からの賜物である御言葉を光にたとえ(ヨハネ1章4節)、またタラントンにたとえ(マタイ25章)、主イエスは御言葉を受けた人々を世の光と呼ばれた。穴を掘り一タラントンを埋めるしもべが主人の怒りを買った理由は、それにより御言葉が世に対して光り輝く機会を完全に奪うからである。
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。
主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」と弟子たちを呼ばれたが、その理由について主はヨハネ8章12節で「わたしは世の光」と宣言された上で「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光であった」と記す。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエス・キリストがこの世に来られた意義は、「言」すなわち神の御言葉(御教え)を御自分で人々に仰せになるためであり、「御教えを聞いて自分なりに努力したけれど悪戦苦闘の結果あまりうまくいかなかった」ならまだしも、最初から聞かなかったように振舞うのは、財産を穴に埋めるのと同じである。
一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。
マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わない信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。
(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
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人間が神を知らず、「人間社会とは人間同士が隙あらば互いの足を引っ張ろうと狙い続ける世界に他ならない」と全ての人間が当然のように思い込み続けるなら、この世は「闇」であり地獄も同然である。「世の光」である主イエスは、そのような状況を打破する方法を人々に教えられ、実際に模範を示された。
(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ2章に登場するシメオンは、幼子イエスを抱きながら、マリアとヨセフの前で「万民のために整えてくださった救い」「異邦人を照らす啓示の光」と神を称えてイエスによってイザヤ9章1節の預言が成就することを語り、母マリアの苦しみ(ルカ2章35節)に関しても、シメオンは聖霊によって語った。
(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
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主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、11章25節では「復活」「命」とも自称された。
(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音に禅問答などない』を140文字以内で」も参照のこと。
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