主イエスはヨハネ12章48節で、「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、わたしの語った言葉が終わりの日にその者を裁く」と仰せになった。ここにおいて、四福音書の中で御自身が実際に仰せになった御言葉を受け入れない者は御自身を拒む者に等しいと、主イエスは宣言されている。
(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
福音書は、神からの賜物である御言葉を光にたとえ(ヨハネ1章4節)、またタラントンにたとえ(マタイ25章)、主イエスは御言葉を受けた人々を世の光と呼ばれた。穴を掘り一タラントンを埋めるしもべが主人の怒りを買った理由は、それにより御言葉が世に対して光り輝く機会を完全に奪うからである。
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
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日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。
ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。
(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ23章は、偽預言者たちが「託宣」を捏造して「わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける」と、主なる神がお嘆きであることを記した。一ヨハネ4章も、キリストの弟子を自称する人々がキリストについて沈黙する一方で世間的な事柄だけ語っていることを、「反キリストの霊」と呼んで非難した。
(注)別エントリー「試論:『偽預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
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キリスト教の信仰に関して使徒言行録は、度々これを「道」と表現し(9章2節、18章25節、同26節、19章9節、同23節、22章4節、24章14節、同22節)、ヨハネ14章6節で主イエス御自身も御自分を「道」と表現され、御自分を通らなければ天の御父のもとには行けないと仰せになった。
エレミヤ23章25節以下では、偽預言者は真の神の御言葉を忘れさせるよう仕向ける点で非常に悪質と説き、28節は偽預言者を「もみ殻」に喩えた。詩編1編4節では「もみ殻」は神に逆らう者を意味し、6節は「神に逆らう者の道は滅びに至る」と記す。マタイ3章12節とルカ3章17節も同じである。
主はマタイ4章4節で、「人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出る全ての言葉によって生きる」と申命記8章3節を踏まえ宣言された。イザヤ1章は主の口による宣言(20節)として「あなたの罪が緋のようだとしても雪のように白くなれる」(18節)と説き、悪との決別を厳命する(16節)。
(注)別エントリー「試論:『御言葉と不可分のパン』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『厳密な意味の公的啓示』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『すべて守る』を140文字以内で」も参照のこと。
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二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。
(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
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