主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道である」と仰せになったが、この場合の「道」とは、全ての人が生きて行く上で辿るべき道筋(道理・規範)を指し、御自身がその模範であることをも意味する。ホセア14章10(9)節「主の道は正しい。神に従う人はその道を歩み、神に逆らう人はつまずく」。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
箴言10章29節は「主の道は義人が頼みとするところであり悪人を滅亡へと導く」と説く。この場合の「道」とは、《主が掟や御教えによってお示しになっている誰もがそこを通って進んで行くべき道筋》つまり「主の規範・指針」を意味し、悪人の「滅亡」とは「永遠の罰」(マタイ25章46節)を指す。
(注)別エントリー「試論:『命に通じる門』を140文字以内で」も参照のこと。
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キリスト教の信仰に関して使徒言行録は、度々これを「道」と表現し(9章2節、18章25節、同26節、19章9節、同23節、22章4節、24章14節、同22節)、ヨハネ14章6節で主イエス御自身も御自分を「道」と表現され、御自分を通らなければ天の御父のもとには行けないと仰せになった。
日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。
(注)別エントリー「試論:『キリスト教の信仰は道』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
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