試論:マルコ4章「種を蒔く人」を140文字以内で

主イエス・キリストは多くのたとえを用いて福音を説明されたが、種蒔きのたとえに関して「このたとえが分からないのか。ではどうして他のたとえが理解できるだろうか」(マルコ4章13節)とされており、このたとえが他の全てのたとえを理解する鍵であって深く心に刻み込むべきである旨を強調された。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節『言』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はヨハネ14章で、「わたしの掟を受け入れそれを守る人は、わたしを愛する者」(21節)と仰せになられて、マルコ4章「種を蒔く人」の「良い土地に蒔かれたもの」「御言葉を聞いて受け入れる人」(20節)は最終的に「父とわたしはその人のところに行き共に住む」(ヨハネ14章23節)に至る。

主イエスはマルコ4章30節以下の「種」のたとえで信仰の成長をお教えになったが、ヨハネ3章では同様の事柄をニコデモに別の表現で御説明され、同章8節は聖霊を「風」と表現する。同章とマルコ4章を比較すると、種が芽を出して日々ゆっくり成長するように聖霊は静かに働き続けると示唆されている。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まない弊害』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の霊と無関係の事象』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは有名な「種を蒔く人」のたとえで「良い土地に落ちた種は、芽を出し良い実を結んだ」(ルカ8章8節)と仰せになり、11節「種とは神の御言葉」15節「良い土地に落ちた種とは、素直で無垢な心で御言葉を聞き、忍耐強く御言葉を固く守り続け、実を結ぶに至る人たちである」と御説明された。

マタイ13章34節以下に「これら全てをイエスはたとえで群衆に語られ何事もたとえを用いずには語られなかった。それは預言者の啓示が実現するためだった。『わたしは口を開き初めの時からの秘密をたとえで語る』(詩編78編)」とある以上、「字義通りの解釈」を強調するのは不自然で眉唾物である。

(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人間をとる漁』のたとえを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:動かし難い物の比喩『山』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『山』と『高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『水と根』を140文字以内で」も参照のこと。
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