主イエスは福音書で離縁(離婚)を原則として戒められた(マタイ5章31節以下、同19章3節以下、マルコ10章2節以下、ルカ16章18節)。離婚歴のある女性が「自分はイエスとは少女時代から特別な関係にある」と自称して、それを真に受ける多くの信者がいるとするならば、単純に世も末である。
(注)別エントリー「試論:偽預言者の悪質性を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
エレミヤ23章25節以下は偽預言者の悪事を告発し、偽りの預言は人々に真の御言葉(御教え)を忘れさせるよう仕向けるという点で非常に悪質だと指摘した。これは、偽預言者はイエスの仰せについてなるべく触れようとせず世間の事柄だけ語ろうとするという、一ヨハネ4章の記述と完全に一致している。
(注)別エントリー「試論:主イエス不在のキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『偽預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
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二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。
(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは「十分の一」という献金を命じておらず新約聖書にこの制度は存在しない。それどころか旧約聖書にも存在せず旧約聖書で「十分の一」はあくまで現物(物納)であり「献金(貨幣)」ではない。聖書に全く根拠がない献金を、聖書に根拠があるかのように言い立てる行為は、いかがなものだろうか?
(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』??を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ23章で律法学者とファリサイ派の人々を厳しく批判し続けられたが、その理由の筆頭に上げられるものは「言うだけで、実行しない」(3節)であった。ここでは、手前勝手で御都合主義的な「信仰義認」を主が否定されていることが歴然としており、マタイ7章21節以下でも同様である。
(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『信仰義認』なる幻影を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ福音書の最後で、命じられた事柄は全て守るべきだと全ての民に教えるよう仰せられた。「全て」を強調された理由はパウロが二テモテ4章3節以下に記す通り、自分の思い込みを基準に人々は、自分が気に入った御言葉だけを好き勝手につまみ食いしながら、厚顔にも信者面するからである。
(注)別エントリー「試論:『教えに耳を傾けない人』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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「聖書のみ」を標榜する人々は「マリアは聖書では神の母と呼ばれたことがない」としばしば強弁するが、ルカ1章43節でエリサベトは「わたしの主のお母さま」と呼ぶ。他方「十分の一献金」は新約聖書にも旧約聖書にも登場しない。旧約で「十分の一」はあくまで現物(物納)であり献金(貨幣)でない。
(注)別エントリー「試論:『わたしの主のお母さま』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
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主イエスは、マルコ12章とルカ21章の有名な「貧しいやもめの献金」の箇所で、「他のどんな裕福な人々よりも、彼女はたくさん献金した」と仰せになり、献金の多い少ないを信仰心の尺度と見なすという価値観をここで明確に否定された。献金で信仰心を評価する行為はキリスト教的ではない発想である。