主イエスはマタイ16章28節で「ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは決して死なない者がいる」と仰せになり、ヨハネ21章22節以下ではそれが愛弟子ヨハネであると教えられた。紀元七〇年の時点でペトロも二人のヤコブも殉教していたが、ヨハネのみ存命だった。
主イエスはヨハネ21章で「わたしの来る時まで彼(ヨハネ)が生きていることをわたしが望んだとしても、あなた(ペトロ)に何の関係があるか」と仰せになった。「主の日」つまり主の来臨としての都の滅亡が紀元七〇年が実現した際、ペトロも二人のヤコブも既に殉教していたがヨハネは生き残っていた。
(注)別エントリー「エルサレムの婦人たちへの伝言」も参照のこと。
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主はマタイ10章23節で「人の子は来る」と仰せになり、「人の子の日」(ルカ17章22節)に言及されたが、黙示録6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日」と表現し、これらの啓示は紀元七〇年のエルサレム滅亡で実現した。支配者たちはイザヤ2章と黙示録6章の通り、洞穴からの逃亡を企てた。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。
主はマタイ10章7節で「神の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、これと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。
出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。
主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。
主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節では「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。
(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ17章34節で「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」21章24節で「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と仰せになった。紀元七〇年のエルサレム滅亡の際、ユダヤ人はローマ市民権の有無によって運命が大きく分かれ、奴隷にされた者たちはローマ帝国の各地へと売られて行った。
ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。
紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。
プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。
主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。
(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
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ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。
(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
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申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。ルカ17章37節のギリシア語本文も、古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。
ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。
主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。
黙示録21章1節は「最初の天と最初の地は過ぎ去った」と記す。詩編78編69節はエルサレム神殿の聖所を天地に喩えた。主イエスはマタイ5章18節で全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代は続くと仰せになり、ルカ21章22節でエルサレム滅亡で全てのことが実現するとも予告された。
「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。
二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。
ルカ21章20節以下で主は、「敵が都を包囲しようとする時は籠城すべきでなく都を離れよ」と警告された。約四十年後、ローマ軍が迫る都では「預言者」たちが、「神が都を救われるから都で待て」と説いたが、神の介入はなく都は滅亡した。この「預言者」たちの虚言を歴史家ヨセフスが書き残している。
(注)別エントリー「試論;黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
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