主イエスは御復活の後、弟子たち(使徒たち)に初めて現われた際「あなたがたに平和があるように」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称である。挨拶として長い形式ではサムエル上25章6節「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのもの全てに平和があるように」。
主イエスはマタイ9章で慢性出血の女性を治癒されたが「あなたの信仰があなたを救った」の後にマルコ5章34節では「安心して行きなさい」と続ける。これは《平和のうちに出発しなさい》というヘブライ人の別れの挨拶(サムエル上1章17節)で《あなたの願いは既に聞き入れられた》を示唆している。
古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。
(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636
主イエスはマルコ5章で、「十二年間も出血の止まらなかった女性」を癒された後、彼女に「安心して行きなさい」と仰せになった。これは列王記下5章19節等に登場する常套句で、ヘブライ語では全ての幸福の総称である「平和」という単語を含み「これからは幸せに暮らしなさい」を意味する表現である。
マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。
マタイ10章34節「わたしが来たのは平和をもたらすためだと思ってはならない」。この言葉の真意を三十数年前シメオンから聖母は預言されていた(ルカ2章34節)。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするしるしとして、また反対を受けるしるしとして、定められています」。
(注)別エントリー「試論:母マリアと『剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7974
ルカ2章14節「地には平和」の「平和」は、福音書の時代のヘブライ人にとって単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外にも、個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。
主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。
(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479
(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823
主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。
主イエスは「あなたが他の人からしてもらいたいことは全て、あなたの方から他の人にしなさい」(マタイ7章12節)を御自分の《律法》となさり、これをもって隣人愛の掟(ヨハネ13章34節)の基礎となさった。このことが欠乏しているがゆえに人々は報道で連日のように惨劇を目にし続けるのである。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199
ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。
(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10376
主イエスはマルコ4章26節以下の「種」のたとえで信仰の成長をお教えになったが、ヨハネ3章では同様の事柄をニコデモに別の表現で御説明され、同章8節は聖霊を「風」と表現する。同章とマルコ4章を比較すると、種が芽を出して日々ゆっくり成長するように聖霊は静かに働き続けると示唆されている。
聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。
(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564
ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。
(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586
(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740
(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657
(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332
(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244
(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4905