試論:「主の重荷」?を140文字以内で

エレミヤ23章33節以下は、「託宣」と「重荷」がヘブライ語で同じ「マッサ」であることから「神の御言葉と言っても自分たちにとっては、どうせ重荷でしかない」と人々の反応が冷たい時代について預言した。マタイ11章30節の主の仰せ「わたしの荷は軽い」は、エレミヤのこの預言を踏まえている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

【追記】

【問】なぜ主イエスは「わたしの荷は軽い」と仰せになったの?
【答】ファリサイ派や律法学者たちは多数の掟から成るモーセの律法に加え、マルコ7章が「昔の人の言い伝え」と呼ぶ様々な決まりごとを人々に課しましたが、《キリストの律法》は「他人からしてもらいたいことを全て他人に行え」だけです。

【問】本当にそれだけなのですか?
【答】後に主イエスは弟子たちの足を洗われた後「今わたしが模範を示したように互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と仰せになりましたが、結局は、マタイ7章12節の《律法》が根底にあります。一ヨハネ5章3節「神の掟は荷が重いものではありません」。

【問】一ヨハネ2章4節「『神を知っている』と自称しながら神の掟を守らない者は、『偽り者』で、その人の内には『真理』がない」の、「神の掟」って何?
【答】同4章20節以下「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することなどできません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」。