マラキ書の最後の節には「父たちの心を子供たちに向けさせ〜」とあるが、なぜそうさせるのかをルカ1章17節は「主に逆らう者に『正しい人(=最後の審判で永遠の命が確約されている人)』としての分別を持たせる準備」のためであると記す。家族の準備が整っているかどうか互いに配慮をさせるために。
(注)別エントリー「試論:『十字架が象徴するもの』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:キリスト教の日々の十字架を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
洗礼者ヨハネは人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と訴えたが、ルカ1章17節では洗礼者が担うことになる重大な使命として、《主に逆らう者に「正しい人(最後の審判で永遠の命が確約されている人)」としての分別を持たせるための準備をする》ことが、天使によって父ザカリヤに予告されている。
一ペトロ2章1節は「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」を捨てるよう要請し、エフェソ4章31節は捨てるべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを一切の悪意とともに」とし、コロサイ3章8節も同様に「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」を捨てることを要請する。
(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ1章19節のギリシア語本文は聖ヨセフを「ディカイオス」(新共同訳では「正しい人」)と表現するが、古代ギリシア語詩編111(112)編6節は、《ディカイオス(新共同訳では「主に従う人」)はとこしえに揺らぐことがなく彼はとこしえに記憶される》として最大級の賛辞で、表現している。
(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
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マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。
(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。
一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。
主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(3節)また「自分を低くして子供のようになる人が天の国では一番偉い」(4節)と仰せになられ、「心を入れ替える」「自分を低くする」の二つが子供のようになるために必要な事柄であると説かれた。
マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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