試論:「罪悪の捕らわれ人」を140文字以内で

エフェソ4章8節は詩編68編19(18)節を踏まえ神は捕らわれ人たちを天に導くため賜物を授けると説く。主はイザヤ61章1節を踏まえ罪悪に捕らわれた人を救う神が来るがそれは御自分だとルカ4章21節で示唆され、マルコ3章29節で聖霊の賜物を悪霊と呼ぶ冒涜は絶対に赦されないと説かれた。

(注)別エントリー「試論:『捕らわれ人に解放を』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13931

(注)別エントリー「試論:ルカ4章18節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13942

【追記】

主はマルコ3章28節以下で、御自身の人間(人の子)的側面(ガリラヤ人、大工等)を云々する人々には酌量の余地がまだ残されるが、御自身の神としての権威(聖霊によって悪霊を追い出した事実)を目の当りにしながらそれになお難癖をつける人については、最早決して酌量の余地はないと警告なさった。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

主はマタイ12章32節で、御自分のことを単に人間的な事柄で嘲る人の悪口(同11章19節「大食漢で大酒呑み、徴税人や罪人の仲間」)は許容範囲内だが、神の霊つまり聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって悪霊を追い出した」と咎めることは絶対に許容されないと、仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

マタイ9章32節以下のいやしのエピソード以降、ファリサイ派の人々は「彼は悪霊のかしらの力で悪霊を追い出している」と主イエスを中傷し続けた。主はマタイ12章32節で、聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって追い出した」と咎めることは絶対に許容されない、と仰せになった。