詩編78編69節の通り、古代のヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天」あるいは「天地」に喩えた。しかしヘブライ9章24節では神殿の聖所を「まことのものの写し(模型)に過ぎない、人間の手で造られた聖所」と呼び、それを「天そのもの」と対比し、エルサレム神殿の滅亡が近いことを暗示する。
(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
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【追記】
ヘブライ4章14節は主イエスを「もろもろの天を通過され」と記すが詩編78編69節の通り、ヘブライ人は聖所を天にたとえた。天地創造以前から「御言葉」はおられメルキゼデクの聖所にもシケムにもシロにもエルサレムにも、それらが天の「写し」(ヘブライ9章24節)に過ぎないにせよ、おられた。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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ヘブライ13章13節はエルサレムを「宿営」と呼び退去を勧める。「年を経て古びたものは間もなく消え失せます」(同8章13節)の通り都と神殿が滅亡して旧約時代が終焉するからだが、既にマタイ5章18節で主イエスは神殿の聖所を「天地」と呼ばれ(詩編78編69節参照)それを予告されていた。
(注)別エントリー「『ヘブライ人への手紙』が書かれた理由」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。
(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。
(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。
主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。
「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。
二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。
主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。
ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。
(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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ヘブライ5章は「大祭司」としてのキリストを強調する。この手紙は「ヘブライ人」つまり当時のユダヤ人キリスト教徒に対して、ルーツである旧約の伝統を思い起こさせると共に、それらは新約(キリストの教え)の中にも新しい形で実現されており旧約が新約に道を譲って役割を終えようとしていると説く。
(注)別エントリー「試論:『律法の時代の終焉』を140文字以内で」も参照のこと。
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