試論:「火」何の比喩?を140文字以内で

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、この節の「火」とはマラキ3章2節〜3節やゼカリヤ13章9節に預言されているもので詩編12編7節〜8節や66編10節にあるように、火が金銀を精錬するのと同じく人間を清くする主の清い仰せを指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795

【追記】

マタイ3章には来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになるとあるが「火」とは「火が金属を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せ」を指し詩編12編7節〜8節、66編10節、105編19節、119編140節、エレミヤ6章29節、ゼカリヤ13章9節、マラキ3章2節〜3節などが関連する。

旧約聖書は、神の御言葉(御教え)をしばしば「火」にたとえた。繰り返しの火による精錬が金属から不純物を取り除いていくように、神の清い御言葉(御教え)に繰り返し接することにより人間の心も清いものとなるからである。一ペトロ1章7節では、信仰上の試練をまさに火による精錬と関連付けている。

黙示録11章5節「二人に害を加えようとするものがあれば、彼らの口から火が出て、敵を滅ぼすであろう」は、エレミヤ5章14節「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」を踏まえているが、エレミヤ5章はエルサレムの背信を咎める内容の章である。

(注)別エントリー「試論;黙示録の年代を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マルコ9章49節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5837

ルカ12章49節「地上に火を投ずる」「その火が既に燃えていたら」の「火」とは、エレミヤ5章14節「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪とし、それを焼き尽くす」にある通り、主の御言葉(御教え)を指す。同20章9節や同23章29節も同じ比喩を使用する。

エレミヤ書では、20章9節で主の御言葉が「火」にたとえられ、5章14節や23章29節でも同様である。洗礼者ヨハネも同じ比喩で「聖霊と火による洗礼」(マタイ3章、ルカ3章)と表現し、御復活後の主イエスと数時間語り続けた二人の弟子たちは、ルカ24章32節で「心は燃えていた」と語った。

エレミヤ5章14節「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同20章9節「主の名を口にすまいと思っても、主の御言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。