ルカ4章13節は「悪魔はあらゆる誘惑を終え、時(ヨハネ17章1節「父よ、時が来ました」)が来るまでイエスから離れた」と記す。ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さの意味も含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。
【追記】
主イエスはヨハネ14章30節で「世の支配者」に言及されたが、その者はルカ4章6節で主に対し、自分なら全世界の権力と繁栄の一切を与えられると豪語した。ヨハネ16章33節における主の仰せ「わたしは既に世に勝っている」は、荒れ野で「世の支配者」からの誘惑を全部はねのけたことを示唆する。
ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。
ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。
古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。
ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。
(注)別エントリー「試論:『贖(あがな)いの小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9650
ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844
主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。
主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。