試論:「隣人愛の反対とは」を140文字以内で

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はレビ記19章18節を引用されて、「自分自身を愛するように隣人を愛する」ことをお教えになった。レビ記の同じ章では隣人愛に反する様々な行為を禁じているが17節は「心の中で憎む」ことを禁じ、たとえあからさまに憎しみを表現しなくとも心の中で密かに憎しみを抱き続けることさえ禁じている。

(注)別エントリー「試論:『無抵抗の相手への悪意』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:子供をつまずかせる者を140文字以内で」も参照のこと。
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レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛する」という隣人愛を命じ、同章ではその隣人愛の対極にある様々な行為を禁じる。17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」と悪意を秘めたまま隣人に接することを禁じて「出来心(ふざけただけ)」という言い訳も認めない(箴言26章19節)。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
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箴言26章19節は日本語で「悪乗り」と呼ばれる行為を戒め、「親しき仲にも礼儀あり」という事柄を想起させる(詩編15編3節参照)。箴言26章18節は「死の矢」という表現を用いるが、旧約聖書の「剣」と「矢」は《心に刺さる言葉》の比喩(詩編64編4(3)節等)で、隣人への暴言を戒める。

(注)別エントリー「試論:『言葉』と『心の傷』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言葉の刃』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
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レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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「愛の反対は無関心」という言葉は、これを聞き「善きサマリア人の話」(ルカ10章)や「最後の審判」(マタイ25章)をすぐ連想できる人にとっては、キリスト教的な意味を持つ。しかし、これらの箇所に思い至らず、それどころか福音書のどんなエピソードも浮かばない人にとっては、混乱の元となる。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは隣人愛の掟を、最も重要な掟の第二と呼ばれた。レビ19章14節と申命記27章18節は、耳や目の不自由な人や道に迷って困っている人を笑い者にするなと教える。レビ19章17節は、以前に迷惑をかけられたわけでもない相手に対し、理由のない悪意を抱いた状態で接してはならぬと教える。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541