試論:「都の滅亡と大飢饉」を140文字以内で

一世紀後半のエルサレムは長期の籠城にも数年堪えうると考えられたほど穀物が備蓄されていた。だがローマに対する大反乱の際、ローマの脅威が一旦去った期間に三派が割拠した武装勢力は互いの支配地域の穀物市場を焼き払い合った。ローマ軍が戻って来て都を兵糧攻めにし、都は大飢饉に陥って滅亡した。

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;『実現の日』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;『天地が消え失せるまで』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

黙示録21章1節は「最初の天と最初の地は過ぎ去った」と記す。詩編78編69節はエルサレム神殿の聖所を天地に喩えた。主イエスはマタイ5章18節で全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代は続くと仰せになり、ルカ21章22節でエルサレム滅亡で全てのことが実現するとも予告された。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

主はルカ21章22節で、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就することを仰せになり、それは紀元七〇年に現実となった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける行為は不毛で誤りの元であり、主の仰せにも合致していない。

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。