試論:「ともし火と隣人愛」を140文字以内で

主イエスはルカ8章16節以下で、「ともし火」の比喩を用いられ、「あなたがわたしの御言葉を聞き、わたしの律法(マタイ7章12節)を理解したならば、聞くだけの人で終わってはならず、必ず隣人たちには親切にして、わたしの御言葉を自分が受けたことを態度で示して伝えなさい」とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ5章16節で「あなたたちの光を、人々の前に輝かせなさい」と仰せになった。イザヤ58章6節〜10節では主からの賜物である光が輝く条件として、他人を圧迫したり小馬鹿にしたり暴言を吐いたりすることをやめて、困窮している隣人に救いの手を差し延べることであると啓示している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ13章12節で御教えを聞いても実行しない人のことを、持っていない人は持っているものまでも取り上げられると仰せになった。これは25章29節でも繰り返され恵みである御教えを隠したと同然の人は、最終的に一度与えられた恵みまで取り上げられると、タラントンのたとえで御説明された。

(注)別エントリー「試論:『土台なしで家を建てる』を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:反キリストを140文字以内で」も参照のこと。
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二テモテ4章でパウロは、人々が「御言葉」(2節)つまり《主が人々の前に御姿をお見せになり直接人々にお話しになった御教え》には耳を傾けなくなり、「自分に都合の良い」(3節)「作り話」(4節)つまり真の御言葉ではない紛い物の方に引かれていくと警告したが、対策は福音書を読む以外にない。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネの手紙一は、キリストの弟子を自称する一方で公生活中にキリストが実際に何を語ってどう実行したかについて全く触れようとしない人々を警戒するよう呼び掛け、彼らがキリストの教会を乗っ取りキリストの御教えの代わりに世間のことだけ語り教会からキリストの存在を奪おうとしていると警告した。

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

ローマ10章17節以下「信仰は聞くことで、しかもキリストの御言葉を聞くことで始まる」「彼らはもちろん、聞いてはいた」マルコ4章23節以下「聞く耳のある者は聞け」「何を聞いているかに注意せよ。あなたたちは自分が他者を量る秤で神なる主から量り与えられ、それに加えてさらに与えられる」。

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべき方』は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『話を聞くべきでない者』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはルカ8章18節で「どう聞くべきかに注意しなさい」と仰せになり、マルコ4章33節では「人々の聞く力に応じて多くのたとえで御言葉を語られた」。これらの場合「聞く」は「聞き分ける(心で理解する)」の意味である。マタイ13章15節では「聞く」と「心で理解する」とを併記している。

(注)別エントリー「試論:『どう聞くべきかに注意』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ13章の「種を蒔く人」の喩えをお話しにになった際、「耳のある者は聞け」(9節)と命じられた。御子イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として来られた。従って主イエスに直接応対する場合には「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアの方が良しとされた。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
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