試論:「完全な信頼こそが信仰」を140文字以内で

詩編12編は裏表(嘘偽り)のある人々ばかりの風潮を「信仰のある人はいなくなった」と嘆く。古代のヘブライ人にとって「二心(ふたごころ)」は信仰とは相容れなかった。「あなたの信仰があなたを救った」や「からし種の一粒ほどの信仰」の「信仰」とは《疑う余地のない確信》《完全な信頼》を指す。

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
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キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
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