試論:「信仰が救った」??を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はそこに「まこと」と平仮名を振る。ヘブライ語の「まこと」に対応しているためであり、主なる神が裏表や嘘偽りのない心を重視される方だからである。従って信仰とは疑う余地のない確信を指す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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【追記】

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は、そこに「まこと」と平仮名を振り旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示す。真理というと哲学的で近寄り難い印象を受けるが、主に帰せられる実際の諸徳は「真、実、信、誠」である。

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

主イエスは使徒たちに重要な事柄を伝達なさる際、アーメンを二度、口にされた。日本語訳では「まことにまことに」「よくよく」等と表現されるが、ヘブライ語ではアーメンも「まこと」も「信じる」の派生語で、ヘブライ人にとって「信じる」とは裏表(嘘偽り)のない態度で向き合うことを意味していた。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
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マタイ8章で異邦人の百人隊長は、命じられたことを忠実に実行することこそ信仰の本質であるという趣旨の発言をし、主イエスを感心させた。母マリアは人々に御子イエスの言葉通りにするよう勧めたが(ヨハネ2章)、神の言葉通りにしなくとも不幸が訪れることはないと蛇はエバを欺いた(創世記3章)。

(注)別エントリー「試論:『異邦人の百人隊長』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『信仰によってアベルは』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは真理である」と宣言された一方、3章21節では「真理を行う者は光の方に来る」と仰せになった。後者の「真理」は、《真理を自称される神の御独り子から、実際に教えられ、信じている事柄(内容)》を指す。ヘブライ語で「真理」は、「信じる」の派生語である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るならば、決して死ぬことがない」エゼキエル18章21節「悪人が全ての過ちから離れわたしの掟を全て守り正義と恵みの業を行うなら必ず生きて死ぬことはない」同31節以下「あなたたちは死んでもよいのか、わたしに立ち帰り生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「試論:『決して死ぬことがない』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守れば決して死ぬことがない」の意味は?【答】マタイ7章12節のキリストの律法(あなたが他の人にしてもらいたいことを、あなたから他の人にしなさい)を忠実に実行するならマタイ25章の最後の審判で永遠の命にあずかり天国の福楽に達するという意味です。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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