【問】主イエスは御自分を真似て湖上を歩こうとして沈んだペトロを信仰の薄い者とお叱りになりました。信仰が厚ければ水上を歩けるの?
【答】新約聖書で水上を歩く行為が話題になるのはここだけです。師の行動ならば全て真似るのが弟子という発想は浅薄でキリストの弟子でも水上を歩けば当然沈みます。
【問】それでもなお、自分は信仰が厚ければキリストの弟子なら水上を歩けるようになれると思うなどと主張する人々が、もし現れたら?
【答】主イエスが「信仰が厚ければ水上を歩けるようになれる」などと教えられたことは、一度もありません。キリストにならうとは、へりくだって隣人に仕えることです。
ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。
一ペトロ5章3節は神の民を司牧する者の心得として、人々に権威を振り回すのではなく、人々の模範となることを勧める。ヨハネ13章15節「わたしがあなたたちにした通りに、あなたたちもするようにと、模範を示した」マルコ10章45節「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、来た」。
弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。
主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。
【問】「僕(しもべ)は主人を超える者ではなく、遣わされた者は遣わした者を超える者でない」の意味は?
【答】「人の子(=主イエス御自身)は仕えられるためではなく仕えるために来た」(マタイ20章28節)。だから「あなたたちの中で偉くなりたい者は、皆の僕になりなさい」(同章26節)です。
主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される。《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。
【問】主イエスはこのことを、目の前の弟子たちに対してだけ仰せになりましたか?
【答】いいえ。全ての時代の、全ての弟子たちに向けて仰せになりました。ペトロが第一の手紙の5章3節に書いた通り、牧者の仕事は自分の群れの模範になることであって、群れに対して威張り散らすことではないからです。
主イエスはマタイ20章28節で御自分が人間となられた目的を「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになった。その三十年以上前、ルカ1章38節で救い主の母となることを告知された女性は「わたしは主のはしため」と答え、彼女が「救い主の母」という立場を的確に理解していることが記される。
【問】なぜカトリックでは、母マリアや養父ヨセフに特別な敬意を払うのですか?
【答】主イエスは、御自分は仕えられるためではなく仕えるために来た(マルコ10章45節)と仰せになり、実際に両親に仕えて(ルカ2章51節)お暮らしになりました。信者は弟子として、主イエスの模範に従うだけです。
主の養父をマタイ1章19節はディカイオスと表現するが、古代ギリシア語訳ハバクク2章4節はディカイオスを高慢な者と対置する。主が「人の子は仕えるために来た」(マタイ20章28節)と仰せになり、聖母が「主のはしため」(ルカ1章48節)を自称する以上、ヨセフのへりくだりは必然と言える。
使徒たちは箴言3章34節を引用し「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みを与えられる」(一ペトロ5章5節、ヤコブ4章6節)と説いた。主イエスもマタイ23章12節で「高慢な者は誰でも低くされ、へりくだる者は誰もが高くされる」と、御自分の弟子たちも含めて、全ての人々に仰せになった。
主は「体のともし火は目」(ルカ11章34節以下、マタイ6章22節以下)と仰せになったが、当然、「あなたの内面は、まなざし・目つきで明らかにされる」という意味でも上記の表現を用いられ、箴言21章4節は《高慢なまなざしは神に逆らう者の傲慢な心を明らかにするが、傲慢は罪である》と説く。
詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。