コロサイの信徒への手紙」カテゴリーアーカイブ

試論:「知らない」を140文字以内で

マタイ7章23節では主なる神が「不法を働く者たちよ、おまえたちなど知らない」と仰せになると記す。全知全能の神がそれを知らぬはずはないが、神は知らないとあえて仰せになる。この場合「知らない」は拒絶の意味だが、不法を働く者こそが御教えを「知らない(わからない)」と拒絶した結果である。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【追記】

マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

主はマタイ7章21節で「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」24節で「わたしのこれらの言葉を行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と仰せになり、「山上の説教」こそ教えの重要箇所だと示唆された。

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

主はルカ9章23節で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と仰せになった。コロサイ3章9節以下は「古い人をその行いとともに脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々、新たにされる」よう勧め、捨てるべき事柄を5節以下で説く。

ヨハネ1章12節以下は「言(ことば)」つまり主イエス・キリストによって「神の子」とされた人々は本来、「肉の欲」と無縁であるべきとする。ガラテヤ5章24節は「肉の欲」と絶縁するという決意と日々の努力を十字架という比喩で表現し、19節以下は信者が避けるべき「肉の業」に関して列挙する。

新約聖書において十字架は比喩的に、当然「困難」「苦難」「試練」等の事柄を意味するが、同時にパウロがガラテヤ5章24節や6章14節で表現するように、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々の努力を象徴する。