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試論:ルカ13章の「狭い戸口」を140文字以内で

主はルカ13章24節で、「狭い戸口」から入るよう弟子たちに仰せになった。この「狭い戸口」とはマタイ7章13節の「狭い門」と同じ事柄で、詩編118編19節の「正義の門」を示唆している。ルカ13章27節で主は「不義を行う者」が「救われる者」(23節)から排除されることを仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

マタイ7章で主は「狭い門から入りなさい」(13節)「命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(14節)と仰せになったが、詩編118編19節以下には「正義の門よ開かれよ。わたしは入って主に感謝しよう。この門は主の門だ。主に従う者はこの門から入る」とある。

(注)別エントリー「試論:天の国の条件を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ13章23節は救われる者は少ないかという主への質問を記す。主は27節で不義を行う人々は神に拒まれると答えられ、救われるか否かはあくまでも一人一人が主のおぼしめしに沿うか否かであり、救われる者の多い少ないよりそれ以前にまず神の義(マタイ6章33節)を求めて生きるよう勧められた。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命』と『神の義』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録7章9節は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」が御父と御子を称える光景を記す。イザヤ56章1節は、正義を守り恵みの業を行う人々、すなわち、主が望まれることを選んだ(4節)人々に、救いと恵みの業が訪れることを預言する。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は詩編18編21(20)節以下にある通り「神は優しい人間には優しく接し、厳しい人間には厳しく接する」とイメージしていた。出エジプト記34章でも主はモーセに対して御自分が優しさと厳しさを兼備していることを仰せになった。選ばれる人イコール選んだ人は当然の結論と言える。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『笛は吹かれたけれども』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
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