試論:「兄弟姉妹、母」を140文字以内で

主イエスは、マルコ3章35節で「天の御父の御心を行う人こそわたしの兄弟・姉妹・母」ヨハネ14章23節で「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。御父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところへ行き一緒に住む」と仰せになり、主イエス御自身の御言葉こそが信仰の核心だと御説明された。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女」の発言を否定しておらず、逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに〔母に関して〕言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
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御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ2章23節は「御子〔主イエス〕を否定する者は、誰であろうと、御父である神にも結ばれてはいません」と記す。主イエスがヨハネ10章30節で「わたしと御父とは一つ」、同14章6節で「誰であれ、わたしを通らなければ、御父の許にはたどり着けない」と仰せになる以上は、当然の話である。

主イエスはヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」と教えられ14章でも繰り返され(10節、11節、21節)16章15節「御父の持っているものは全てわたしの持っているもの」で、御父と御自分との間に差異はないと仰せになった。

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
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ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ7章14節では「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」と教えられたが、ヨハネ10章9節では「わたしは門であり、わたしを通って入る者は救われる」同14章6節では「わたしは道・真理・命であり、わたしを通らなければ誰も父の許に行くことはできない」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
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