試論:一コリント15章6節を140文字以内で

一コリント15章6節は復活後の主の御出現が五百人以上へ同時になされたと記すが、使徒言行録1章15節は主の御昇天と聖霊降臨の間に一団となっていた人数を百二十人ほどと記す。「五百人以上」とは同じ場所にいた総数ではなく「別々の場所の各人へ同日のほぼ同時刻に」という可能性も否定できない。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖母と聖霊降臨を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

箴言15章3節は「ありとあらゆる場所に主の御目は注がれ、善人をも悪人をも全てをごらんになっている」と記す。復活された主イエスは、それぞれ遠く離れたさまざまな場所にいた、五百人以上の前に、同じ日の同一時間帯、別々に御出現されることによって、御自分の神としての遍在性をお示しになった。

ヨハネ2章24節以下「イエスは全ての人のことを知っておられ、何が人間の心の中にあるか熟知されていた」ヘブライ4章13節「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、神の御目には全てのものがさらけ出されている」箴言15章3節「どんな所にも主の御目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる」。

(注)別エントリー「試論:『神が人となる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ2章24節〜25節「イエスは、何が人間の心の中にあるのかをよく知っておられ、すべての人々について知っておられた」4章39節「この方が、わたしの行ったことを、すべて言い当てました」6章64節「イエスは最初から、信じない者たちが誰なのか、また裏切る者が誰なのかを御存知だった」。

主イエスはマタイ6章で、施し・祈り・断食は人目に付かないようにと命じられ、天の御父である神は全て御存知だと仰せになった。箴言15章3節「どこでも主の御目は注がれ善人も悪人も見ておられる」詩編90編8節「〔主よ、〕あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれる」。

(注)別エントリー「マタイ6章『祈る時には』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;『偽善者と演技』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。