主イエスはルカ11章29節で、しるしを欲しがる人々を「今の時代の者たちはよこしま」と仰せになった。同4章3節「神の子ならば、この石にパンになるように命じたらどうだ」同9節「神の子ならば、ここから飛び降りたらどうだ」同23章35節「もし選ばれた者ならば、まず自分自身を救ってみろ」。
(注)別エントリー「試論:ルカ4章『あらゆる誘惑』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主イエスはマタイ11章14節で、洗礼者ヨハネが預言者マラキのいうエリヤだと教えられたが、ヨハネ1章21節で洗礼者は一度それを否定した。当時の人々は最初にしるしで判断しようとした(マタイ12章38節)が、洗礼者にはエリヤと同じしるしを行う意図はない(ヨハネ10章41節)からである。
(注)別エントリー「試論:『洗礼者ヨハネとエリヤ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『あの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。
主イエスはパンを増やし四千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。
(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。
四福音書は主イエス・キリストによる病人の奇跡的な癒しをさまざまに記すが、理由はイザヤ35章4節以下で救い主の到来が預言されている通り、見分ける徴は目や耳や手足や言葉の不自由な人の奇跡的な治癒(6節。またヨハネ9章32節参照)であることが、既に数百年前から預言されていたからである。
主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが、〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分とは無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究しても、本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。
(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書研究の目的を140文字以内で」も参照のこと。
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