【問】ヨハネ1章が「言」である神、主イエスを、「光」「まことの光」と呼ぶ理由は?
【答】イザヤ58章9節以下の通り「他人を苦しめたり小馬鹿にしたり罵倒したりすることを止め飢えている人や苦しむ人に配慮する」者を、「あなたの光は闇の中に輝き出て、闇も真昼になる」と喜ばれる神だからです。
【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。
【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。
【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。
【問】詩編4編7(6)節の「御顔の光」って、何の比喩?
【答】「わたしたちに御顔の光を向けて下さい」と、次節の「喜びをわたしの心にお与え下さい」とは、同じ事柄です。つまり、「主の御顔の光」とは、「主の輝くような笑顔」「主の喜び(主によって与えられる喜び)」「主の好意」等の比喩です。
主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。
(注)別エントリー「試論:イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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福音書は、神からの賜物である御言葉を光にたとえ(ヨハネ1章4節)、またタラントンにたとえ(マタイ25章)、主イエスは御言葉を受けた人々を世の光と呼ばれた。穴を掘り一タラントンを埋めるしもべが主人の怒りを買った理由は、それにより御言葉が世に対して光り輝く機会を完全に奪うからである。
ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。
詩編119編105節に「〔主よ〕あなたのことばはわたしの道の光」とあるが、「ことば」は神の御教えを指すのと同時に、ヨハネ1章1節では人々に御姿をお見せになり御教えを直にお話しになる主イエスの称号でもあり、主は御自分を同14章6節で「道」、同8章12節で「世の光」だと表現なさった。
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。
ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。
(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
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(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
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ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」はマタイ7章26節の主イエス・キリストの御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】主イエスはなぜマタイ5章15節で、ともし火を見えない場所に置く者はいない、と仰せになられましたか?
【答】箴言6章23節は主からの御教えをともし火に喩えます。つまり主の御教えを受けたら直ちに実行しなさいの意味です。御言葉を聞いても実行しないのは砂の上に家を建てるのと同じです。
【問】主の御言葉を聞いても実行しないことを見えない場所にともし火を置くことに喩えたのですか?
【答】主は御言葉を聞いても実行しないことを、砂の上に家を建てること、見えない場所にともし火を置くこと、主人から預かったタラントンやムナを隠してしまうことなどに喩えられ、強く戒められました。
一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」だと説かれた。ルカ10章25節で一人の律法学者が「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば〜」と質問したことから、主イエスは「善きサマリア人」の話で憐れみの心の重要性を教えられた。
(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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イザヤ58章10節は「心を配る」と日本語で表現されるが、ヘブライ語本文は「霊魂を注ぐ」と表現する。ルカ11章41節「器の中にあるものを施せ」はこれに基づく。「器」は人間の比喩、「器の中にあるもの」は霊魂で、主の真意は「揚げ足取りをやめて、隣人に配慮することを学びなさい」であった。
(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324