【問】マリアとヨセフがイエスを神の子として心・精神・思い・力を尽くし愛していたなら、なぜ二人は十二歳のイエスを見失いましたか?
【答】普段のイエスは人として両親に従順(ルカ2章51節)で手のかからない子でしたが、この時の神殿での行動は人間には予想外の、神としての行動だったからです。
(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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十二歳のイエスを見失って必死に捜すマリアとヨセフの心情は、ギリシア語本文では動詞「オデュナオー」で表現され、新共同訳はルカ2章48節で「心配して」と訳す。同じ語は使徒言行録20章38節で「非常に悲しんだ」ルカ16章25節で「もだえ苦しむ」と訳され、大きな苦痛を伴う悲しみを表わす。
(注)別エントリー「試論:『イエスの両親』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。
(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスが十二歳の年の過越祭の折、帰路イエスを見失ったと気づいたマリアとヨセフは、三日間捜し回った後とうとう神殿で学者たちと討論されている少年イエスを見つけた。成人後のイエスの公生活の際に自分はいない方がよいとヨセフは予感していたが自分の人生に間違いはなかったと、この時、悟った。
(注)別エントリー「試論:『三人家族の三番目』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
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聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど謙遜そのものの生涯であり、ただの一度も主イエスの前で出しゃばることがなかったゆえに「へりくだる者は高められる」(ルカ14章11節)の通りに崇敬を集めた。
(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】主イエスが十二歳の時、主を見失った後、エルサレム神殿の境内で主を発見した時、聖母は主をとがめたのではないですか?
【答】いいえ。聖母は御子をとがめたわけでも責めたわけでも非難されたわけでもなく、ただ最愛の御子が自分に一言もなく姿を消した理由を知りたかった、ただそれだけでした。
【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?
【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。
「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。
(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)と呼ばれる女性なのに、なぜ「主のはしため」と謙遜したのですか?
【答】もしも彼女が「自分は救い主の母だから息子と同じ扱いを受けたい」と思い上がったなら、神のようになりたいと思ってサタンにだまされた、エバの二の舞になるからです。