【問】主はマタイ6章33節で神の国と神の「義」(ディカイオシュネー)を求めよと仰せになりました。この具体的な意味は?
【答】詩編112編9節を引用した二コリント9章9節でも同じ語が用いられますが、新共同訳の日本語は「慈しみ」です。なお、元の詩編の日本語は新共同訳では「善い業」です。
【追記】
【問】マタイ6章33節「神の国と神の義」や同5章20節「あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ派の義に勝らなければ」の「義」って、何?
【答】それらの「義」という訳語はギリシア語原文ではディカイオシュネーで、この語は同6章1節「人前で善行を見せびらかせないように」の「善行」です。
【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。
【問】「ヨセフは義人だったので婚約者のことを大っぴらにはせずひそかに離縁しようとした」の意味は?
【答】古代のヘブライ人の「義」は《善意》を指し、彼は「善意の人」であり「お前は俺のメンツを潰したのだから、お前もお前の子も地獄に堕ちろ」などと喚いて大騒ぎしたりは決してしませんでした。
(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092
マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。
(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243
(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464
【問】聖書の中の「愛」も聖書の中の「義」も、ともに「善意」や「善行」という点では一致しているということですか?
【答】少なくともマタイ福音書におけるディカイオス/ディカイオシュネーの用法を調べる限り、聖書の中で、「愛」と「義」の間に、矛盾や対立や齟齬の類いは存在していないようです。