試論:「御父と御子イエス」を140文字以内で

詩編2編7節〜9節「あなたはわたしの子である。今日、わたしはあなたを生んだ。わたしは国々をあなたの相続財産とし、地の果てまで、あなたの領土とする。陶工が器を砕くように、あなたは鉄の杖でそれらを打ち砕く」。黙示録2章26節以下では、鉄の杖は「諸国の民の上に立つ権威」を象徴している。

【追記】

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:「神の母であること」を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:「救い主の母であること」を140文字以内で」も参照のこと。
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ダニエル7章は、天において《御父である神》が《御子である神》に全権を委任する光景(13節〜14節)を啓示する。このことを主イエスは四福音書の随所で繰り返し強調され(マタイ11章27節、同28章18節、ルカ10章22節、ヨハネ3章35節、同13章3節等)、「真理」とお呼びになった。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
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エゼキエルやダニエルが「人の子よ」と呼びかけられる時「人の子」は「人間(人類の一員)」という一般的な意味である。「人となられた神」が自称される時だけ「人の子」は神の称号としての意味を持つ。マタイ12章では「人の子」は主の人間としての側面を指し、「聖霊《神の霊》」の比較対象である。

ヨハネ1章14章は「言(ことば)は肉となって」と記し《人々と直にお話しになる、御子である神》主イエス・キリストが人間となられたことを記すが、10章30節では「わたしと父は一つ」と主は仰せになり、たとえ自分は人間(「人の子」)となっても同時に神は神のままであり続けることも示された。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ12章32節で、御自分の人間としての側面(ガリラヤ人、大工など)に関して同時代の人々からとやかく言われてもそれは看過すると仰せになったが、神としての側面に関して難癖をつける(悪霊を追い出した神の霊つまり聖霊を、ベルゼブル呼ばわりするなど)なら看過されないと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『聖霊に対する冒涜』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
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ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。