試論:「ニネベの回心」を140文字以内で

ヨナ書で「大いなる都」と呼ばれたニネベでは、預言者ヨナによる滅亡の警告を受けて都の人々がこぞって神を信じ、直ちに回心して神の御前にへりくだり、粗布をまとって断食し、ひたすら神に祈願して各々が非を認め、悪の道から離れて不法を捨てた。主はそれを御覧になり、ニネベの滅亡を思い直された。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主が御怒りになる理由』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌う際、以前から学んでいたはずである。

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『無垢をリスペクトする』を140文字以内で」も参照のこと。
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ゼカリヤ7章13節「わたしが呼びかけても、彼らが聞かなかったように、彼らが呼びかけても、わたしは聞かない」マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の御父の御心を行う者だけが入る」23節「わたしはあなたたちを全く知らない」。

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「高慢(おごり・高ぶり)が人間にもたらすものとは」も参照のこと。
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イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『終わりの時』の人々の姿を140文字以内で」も参照のこと。
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