試論:「礼服と救い」を140文字以内で

マタイ22章は天の国で神の御前に立つ条件を礼服にたとえるが、詩編132編は義(9節)救い(16節)を身にまとうと表現し、それをコロサイ3章は具体的に記すが、ガラテヤ5章で聖霊の賜物として記される事柄とも合致する。当然ルカ1章で比類のない恵みを受けたと記されるマリアは該当している。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:恵まれた方の恵みって何?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

マタイ22章の「礼服」に関連して、ローマ13章14節で「主イエス・キリストを着る」ことをパウロは勧め、コロサイ3章10節でも「主の姿に倣う新しい人を着る」ことを勧める。「倣う=着る」べきものとして憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容そして愛を「着る」ことをコロサイ3章は勧めている。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ6章33節で「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになった。古代のヘブライ人は神の義(正義)を実行する人となることを「正義を衣としてまとう(=身に着ける)」と比喩で表現した(詩編132編9節、ヨブ29章14節)。従ってマタイ22章の「礼服」とは正義(神の義)の比喩である。

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。

黙示録16章15節は「わたしは盗人のように来る」に「衣を身に着けている人は幸い」と続け、マタイ22章「礼服」の比喩を再現する。黙示録が啓示する時代でも、福音書の主の仰せが本質的に重要と分かる。身に着けるべき衣とは、詩編132編9節によれば正義(=神の義。マタイ6章33節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
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