主イエスはマタイ23章で律法学者やファリサイ派の人々を「偽善者」と呼び批判されたが、その理由の筆頭に「言うだけで実行しない」(3節)を挙げられた。聖書ギリシア語「偽善者」はもともと、「(ギリシア演劇の)演者」に由来し、「言うだけで実行しない」人を<信仰を演じる人>にたとえている。
(注)別エントリー「試論:マタイ6章『祈る時には』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
マタイ7章24節で主は「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」を「賢い」と表現され、26節で「聞くだけで行わない者」を「愚かな」と表現された。主の「たとえ」においては、行いを基準として「賢い」と「愚かな」が分けられている。このことを踏まえれば、25章の「油」の意味もおのずと分かる。
(注)別エントリー「試論:『無償』と『無為』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ23章で律法学者とファリサイ派の人々を厳しく批判し続けられたが、その理由の筆頭に上げられるものは「言うだけで、実行しない」(3節)であった。ここでは、手前勝手で御都合主義的な「信仰義認」を主が否定されていることが歴然としており、マタイ7章21節以下でも同様である。
(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『信仰義認』なる幻影を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ福音書の最後で、命じられた事柄は全て守るべきだと全ての民に教えるよう仰せられた。「全て」を強調された理由はパウロが二テモテ4章3節以下に記す通り、自分の思い込みを基準に人々は、自分が気に入った御言葉だけを好き勝手につまみ食いしながら、厚顔にも信者面するからである。
(注)別エントリー「試論:主イエス不在のキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『教えに耳を傾けない人』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ12章37節「あなたは自分が口にした言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる」5章22節「兄弟に『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」7章21節「わたしに『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではなく、天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」。
(注)別エントリー「試論:『新たに生まれなければ』を140文字以内で」も参照のこと。
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エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?
(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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神なる主は申命記5章で御自らイスラエルの民に語り掛けられ、エレミヤ10章は真理の神である主と、偶像の神々との違いを、話すことができるかどうかだと示唆する。「人間にとって耳の痛いことなどいっさい口にせず、黙って人間のわがままを聞いてくれる神が欲しい」という人間の我欲が偶像を造った。
(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:主の御言葉と『火』の関係を140文字以内で」も参照のこと。
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主なる神がシナイ山でモーセに多くの戒めや掟をお授けになっている間、民は金の子牛の像を造りこれを自分たちの新しい神とし、勝手なふるまいをしたが、モーセは怒って掟の板を投げつけた。人々は神からの恩恵だけ望んで戒めや掟には目もくれないが、実は主からの戒めや掟こそが恩恵だとは気付かない。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。
主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。
マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。
主イエス・キリストがこの世に来られた意義は、「言」すなわち神の御言葉(御教え)を御自分で人々に仰せになるためであり、「御教えを聞いて自分なりに努力したけれど悪戦苦闘の結果あまりうまくいかなかった」ならまだしも、最初から聞かなかったように振舞うのは、財産を穴に埋めるのと同じである。
一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。
マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わない信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。
(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ2章5節は「神の御言葉を守るなら確かにその人の内には神の愛が実現している。これによってわたしたちが神の内にいると分かる」と記し、3章18節以下は「言葉や口先だけではなく行いをもって誠実に愛し合うならば、それによって自分が真理に属すると分かり、神の御前で安心できる」と記す。
(注)別エントリー「試論:『その人のところへ行く』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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