マルコ6章34節は大勢の群衆が「飼い主のいない羊」のようだったので主が憐れまれたと記す。ゼカリヤ10章2節は、無内容で大概な「啓示」の連続に神を求める人々が困惑して「人々は羊のようにさまよい羊飼いがいないので苦しむ」と預言し、3節「わたしの怒りは羊飼いたちに対して燃える」へ続く。
(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。
主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。
旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。
二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。
(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
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二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。
一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。
マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
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