試論:「恵みの時」「救いの日」を140文字以内で

パウロは二コリント6章2節でイザヤ49章8節を引用し、「今や恵みの時、今こそ救いの日」と記す。当然こう記す前提には、主イエスこそイザヤ49節以下に預言された「主の僕(しもべ)」であり、イザヤ50章6節に預言された救い主の御受難を経て救いの預言が完全に成就したという認識が存在する。

【追記】

ルカ2章32節でシメオンは幼子を「異邦人を照らす啓示の光」と呼び、この幼子こそイザヤ49章6節で預言された「主の僕(しもべ)」だと示唆した。さらに続けて「反対を受けるしるし」(ルカ2章34節)という表現で、この幼子がイザヤ50章6節の受難を経験することをも、母親のマリアに伝えた。

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

(注)別エントリー「試論:『剣が象徴する事柄』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言葉は剣』を140文字以内で」も参照のこと。
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幼子を腕に抱いたシメオンはルカ2章32節で幼子を「万民を照らす啓示の光」と呼んだ。イザヤ49章6節は「わたしはあなたを僕(しもべ)とし、国々の光としてわたしの救いを地の果てまでも、もたらす者とする」と預言した。フィリピ2章7節「キリストは人間と同じ者になられ、僕の身になられた」。

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

古代のギリシア語イザヤ50章6節は「わたしは鞭打つ者に背中を、平手打ちする者に頬を向け、なお嘲りと唾からも顔をそむけることがなかった」と記し、この節をマタイ5章39章の主の仰せそして御受難の際(マルコ14章〜15章)の主の御苦しみと御振舞いに、最も近いニュアンスで、解釈している。

(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

(注)別エントリー「試論:『自分の命を憎む人』??を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ12章27節「わたしはまさにこの時(御自身がゴルゴタにおいて十字架上に『上げられる《高い所に掲げられて顕示される》』御受難の時)のために、来た」マタイ20章28節、マルコ10章45節「人の子は、多くの人々の身代金(=あがない)として、自分の命を献(ささ)げるために、来た」。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
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