試論:小羊の弟子が王となる条件を140文字以内で

黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

【追記】

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに差配して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至る努力を日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。