試論:「御教えの根幹」を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ7章12節で《キリストの律法》を授けられましたが、なぜですか?【答】「自分が他の人からしてもらいたいことならなんでもあなたから他の人にしなさい」という考え方が土台になければ、いくら言葉で「愛」とか「悔い改め」とか口にしたところで全て絵空事に過ぎないからです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論;『世に光を輝かせなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

【問】なぜ世の人心は荒廃し「愛が冷える」(マタイ24章12節)のですか?【答】主イエスが「あなたが他の人からしてもらいたいこと全てをあなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節)と仰せになり、御自分の「律法」とまで呼ばれたのに、弟子を自称する人々でさえそれを等閑にするからです。

一ペトロ2章の冒頭では、霊的な成長とは悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を全て捨て去ることとし、使徒言行録8章では、魔術師シモンが聖霊のしるしを金で買おうとしてペトロに非難された。主イエスもマタイ7章22節以下で預言や奇跡や悪霊を追い出すことより悪を行わないことが重要と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『幼子のように』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
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聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現した。一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧なのが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270