「教会の母」聖マリア

主の昇天後の五旬祭の日、弟子たちは聖霊降臨を経験したが、聖母だけは三十年以上前、受胎告知前後に聖霊の《降臨》を経験されていた(ルカ1章35節)。ルカ1章35節と使徒言行録1章8節のギリシア語動詞は同一で、これぞ聖霊降臨を前にして聖母が精神的支柱として別格扱いされていた理由である。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

【問】カトリックは聖母を「女王」扱いしますが福音書のマリアは控え目な女性ではないでしょうか?【答】黙示録5章10節は小羊に忠実な人々が王になると啓示します。「最も偉い者とは皆に仕える者」の御教えに忠実でサタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからで、聖母は全信者の先駆的存在です。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

創世記3章でエバが蛇の誘惑に迷わされた後、主なる神は、エバに代わって蛇(サタン)と徹底的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことで救い主に従おうとする全ての人々にとっても彼女は母の役割を果たすであろうと、啓示された。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

使徒言行録1章14節には、「熱心に祈っていた」人々の中で「婦人たち」とは別に「イエスの母マリア」の存在が特記され、聖母がいわゆる「聖婦人」と呼ばれた敬虔な女性たちとは別個の存在とみなされていたことが記されており、初代教会で聖母がおのずと別格扱いとされた当時の状況が示唆されている。

(注)別エントリー「試論:『第二のエバ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4880

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章で、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「『無原罪の御宿り』の意味するところとは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4382

古代に遡ることができるある伝承は、十二使徒の中で、聖母に対する敬愛が特に強かった三人が、聖母の終生童貞に倣って終生童貞(独身)であったとする。それはヨハネと二人のヤコブで、ゼベダイの子らの母は聖母の「姉妹」(ヨハネ19章25節)であり、ヤコブの母も聖母の(義理の)「姉妹」だった。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

ヨハネ1章18節は「ふところにいる」という位置関係で御父である神と御独り子であるイエス・キリストとの親密な関係を表現する。13章25節で主に「(裏切ろうとしている一人、)それは誰ですか」と質問した弟子はまさに同じ位置関係で、この弟子が主から特に目を掛けられた存在であると示唆する。

(注)別エントリー「試論:『ふところ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8816

主は御受難の際、ヨハネに母を託された。このことで聖母には主以外に子がないとわかるが、ルツ記のように「近くの他人より遠くの親戚」の聖書世界では愛弟子というだけで師の母親を引き取るのは不自然で、ヨハネの母が「母の姉妹」(ヨハネ19章25節)つまり聖母の親族である蓋然性は否定できない。

福音書は主イエスの「兄弟姉妹」の存在を記すが、主は御受難の際、母を弟子ヨハネに託された。古代イスラエルでは師の死後その母の面倒を見るのは本来、弟子でなく遺族の責務である。ヨハネは自分の母を「母の姉妹」(ヨハネ19章25節)と記す。古代イスラエルで「兄弟姉妹」は親族全般を意味した。

ヨハネは大祭司が自分の存在を認識していた(ヨハネ18章15節)と記す。大祭司がガリラヤの漁師の息子をなぜ、認識していたのか? 理由として可能性が大きいのは、ヨハネの母が聖母の母アンナやエリサベトと同様、祭司族出身の女性だったためと推定され、母方が祭司族という点で、皆が遠縁だった。

(注)別エントリー「試論:『清めの水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13744

主にゼベダイの子らの母が息子たちを左右の座にと願った時、残りの十人の使徒は立腹した。これはしかし主が御受難を予告された直後であり、この「雷の子」である兄弟は決死の覚悟を主に伝えたい一心だった。ヨハネは御受難の折も主の傍らにあり、御受難の際に主から一時離れたヤコブも最後は殉教した。

福音書には主の職業はテクトーンとありホメロスの叙事詩ではテクトーンは船大工をも意味した。もしも主が腕の確かな職人として既に漁師の間で知られていたとすれば、故郷で生涯を終えることが多く同業者だけで集まりがちな漁師の中から、すぐ四人の信頼を得て弟子とすることができたのも、道理である。

聖母マリアの両親に関してカトリック教会の聖伝は、父がダビデ王家の末裔ヨヤキム、母はアロン族(祭司族)の娘アンナと教えてきた。古代のイスラエルでは、結婚相手は同じ部族または先祖が共通する同士が望ましいとされたが、大祭司アロンの妻はユダの族長ナフション(ダビデの先祖)の姉妹であった。

(注)別エントリー「試論:カナでの婚礼と聖母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9059

跡取りを産む前に夫に先立たれたルツは、申命記25章の規定に従って亡き夫マフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズはマフロンとは父も母も異なっていた。古代イスラエルにおける「兄弟」という概念が、父や母を同じくする同胞のみならず、広く親族全般を含んでいたことは、歴然としている。

ルツ記の主人公であるルツは、最初の夫マフロンとの間に跡取りを産む前に夫に先立たれ、のちに申命記25章の規定に従ってマフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズは亡夫マフロンとは父も母も異なっていた。マフロンの父はエリメレク、母はナオミで、ボアズの父はサルマ、母はラハブである。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

(注)別エントリー「試論:四世紀の『イエスの兄弟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13087

(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7888

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544