箴言14章21節は隣人を侮る者が必ず罪ありとされることを説き、同11章12節は隣人を侮る者とは思慮に乏しくあさはかな者だと説く。真心の人アベルは兄カインを侮る気など皆無だったが兄から恨まれて殺された。ましてアベルほどの真心もなく隣人を軽々に侮る者を待つ災難は、どれほどであろうか?
(注)別エントリー「試論:カインとアベルを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
ヘブライ11章4節は「信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを献げ、神が彼の献げ物を認められることによって彼は義人と証明された」と記す。ヘブライ人にとって信仰とは「まこと(真、実、信、誠)」に基づいたものであるべきで、この節の「信仰」とは、真心(まごころ)と同じ意味である。
(注)別エントリー「試論:『信仰によってアベルは』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:詩編12編の『信仰』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ1章19節は主の養父ヨセフをディカイオス(正しい人、義人)というギリシア語で呼び、主は同23章35節で創世記4章のアベルを同じ語で呼ばれた。古代ギリシア語訳創世記6章9節とシラ44章17節とはノアを同じ語で表現し、アベル・ノア・ヨセフの三人が同じカテゴリーに属すると物語る。
(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ノアとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
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A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。
B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。
C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。
D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。
「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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